2022年3月3日木曜日

MODE 再起動

お久しぶりです。

このブログ、書かないままにもう何年経ってしまったのか。

この度、この3月をもって近畿大学を退任し(定年退職!)、一匹の演劇人に戻ることなにりました。

とりあえずは住んでいるここ大阪の小劇場でぼちぼちMODEを再開します。

なるべく間を置かずにこのブログを書きたいと(今は)考えています。どうぞよろしくお願いします。

松本修

 

 

 

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2016年3月15日火曜日

チケット情報

初日16日が満席になりました。
千秋楽21日も残席わずかで、最前列の小椅子でのご案内になる可能性ございます。

2016年3月14日月曜日

演出家の独り言⑥

劇場入り。
一昨日に江古田での最後の稽古を終え、昨日は荷出しでトラックに乗っていた。
この十数年はMODEの小道具(椅子やテーブル、ベッドなどの家具や食器類)、衣裳や装身具、それから主にカフカ作品で使った大きな扉や門などを倉庫に預けてある。埼玉県の秩父までは行かないが、そっち方面の寄居町というずいぶん田舎にある倉庫である。池袋から高速を使っても片道約2時間。毎回ではないが、ほぼ年に1回くらいは舞台監督さんなどと倉庫を訪ね、次の舞台には何が必要かをチェックしてピックアップしてきたり、これはそろそろ廃棄処理だな、などと、ま、管理をしにいく。
今回は、MODEは当面「活動休止」ということなので、この『あなたに会ったことがある・4』に必要な
道具類はトラックに載せ、他は「廃棄」という紙をペタペタと貼ってきた。しばらく、この倉庫ともお別れである。この十年間使ってきた家具たちともサヨナラ。十分に元手は取ってはいるが、使い込んだ家具というものは、家庭や仕事部屋でない、「フィクションを作り出す現場」においても、重要な位置を占めているようだ。
所謂、公共の稽古場やレンタルスタジオなどにあるパイプ椅子やパイプテーブルでも演劇の稽古がやれないわけじゃないけれど、私はなーんか駄目だな、と思うタイプの演出家です。チェーホフとかカフカとか時代背景や国柄は違っていても、そのドラマのベースに「生活空間」があるからだと思う。舞台美術が最終的にリアルなセットじゃなくなったとしても、そこにいる人間の身体感覚が何によって支配されているかと言うことは大事なことだと思う。
今回、竹内さんが書下ろしてくれた戯曲は、現代日本のある劇団の稽古場の話でまさに私たち
にとって身近な時間・空間がベースになっている。MODEの稽古場=劇中の劇団の稽古場であるように、稽古をしてきた。使っている小道具や衣裳や舞台セットもほぼMODEそのままと言える。
この一月以上、稽古場で馴染んできた物たちに、さらに倉庫から運んできた物たち(これらもほとんどの出演者にとってはお馴染みのモノたちだ)加わって、身体の記憶と物語の記憶の中で、しかしながら怠惰な記憶に影響されて、ルーティン・ワークとならないよう、「新鮮な劇」をお届けできるよう、残り後3日間、初演の開演時間のギリギリまで神経を研ぎ澄ませていたい。
 
 
 
 

2016年3月11日金曜日

演出家の独り言⑤

チラシの絵について。
何人かから問合せがあり、竹内銃一郎さんにも「あれ、誰の絵?」と聞かれました。
なんか自分は、レヴィタンと言えばチェーホフ、と勝手に思い込んでました。
チャイコフスキーといえばチェーホフとか…。ま、チャイコフスキーとチェーホフの関係はあまりに有名ですが、レヴィタンはマイナーな画家なんですね。
思い起こしてみれば私だって、1996年にロシアに行き、モスクワのトレチャコフ美術館でレヴィタンの絵を初めて見たのでした。そこで買ったレヴィタンの画集はとても印刷の悪い、日本で言えばまるで古本屋で見つけた戦前の画集のようなものなんですが、なにかそれも良い感じで、いまだにたまあに手に取ってはぼーっと眺めています。
イサーク・レヴィタンはロシアのチェーホフと同時代の風景画家です。現在のリトアニアに生まれたユダヤ人です。1870年代にモスクワに出てきて、モスクワ美術学校で学び、チェーホフの兄である画家ニコライ・チェーホフらと親交をもち、やがて弟のアントン・チェーホフと親しくなりました。



添付したこの絵がチラシの作品「ソコルニキの秋の日」です。歩いている女性はまるでチェーホフの小説や戯曲の登場人物に見えますね。風景も物語の背景そのものです。
晩年のレヴィタンはクリミア半島のヤルタにあるチェーホフの家で過ごしたそうです。私は20年前に訪ねたことがあります。チェーホフの家は生前のままに記念館になっています。
 
もう、一点「岸」という作品を添付します。まさにロシアの風景です。寂しいですね。
チェーホフの作品、とくに戯曲の舞台となっている田舎にはこんな川岸や湖畔の光景があったのでしょう。チェーホフ作品の登場人物たちがどうして、ああも冗舌なのか、変わり者なのか、我がままなのか、それがわかるような気がします。


レヴィタンはチェーホフの埋葬されているモスクワのノヴォデヴィチ墓地、それもチェーホフの隣に埋葬されているそうです。
じつはチェーホフのお墓は2007年に訪ねてお参りしたのですが隣がレヴィタンの墓だとは知りませんでした。

2016年3月2日水曜日

演出家の独り言④

MODEの活動休止の理由。
いわゆる「企画書」というものに書いたのが下記の文章である。
とくに「解散」と銘打つわけではありません。
そもそもMODEは主宰の私一人がいて、公演毎にキャストとスタッフを集めてやって来たのですから、一人じゃ解散も何もありません。当面は公演計画を立てずに、黙って日本の演劇界の様子をちょっと距離を置いて見聞きしてみようと考えているのです。
私が作りたい舞台を一緒にやりたい俳優やスタッフたちとエネルギーをかけて作っても、観客の反応がいまひとつであったり……、という単純な理由もあります。また、私が観たい舞台、楽しめる舞台、刺激を受ける舞台が東京の劇場からほとんど無くなってしまったということもあります。
私は何人かの作家や演出家から刺激をもらって、動力源としてきました。さらに言えば、ほとんどの舞台芸術が「商品化」していて、「商品」として流通しない「純粋な舞台芸術」を続けるのがなかなかシンドイ状況になっているからです。「前衛」を謳う「ゼンエイモドキ」の舞台も「商品化」されています。
ま、御大層に状況を批判するつもりはありませんし、やりたいことを一緒にやれる仲間がまた集まることが出来て、それを観て、楽しんでくれる観客がまた集まってくれそうなら、またMODEを再開します。それまでちょっと一服、ひと休みです。
ほとんど、私が考えている通り、間違いありません。
今日、稽古の後に、下北沢でやっている日本演出者協会の「若手演出家コンクール」の審査会場で一本、観劇してきたのだが、会場で会った流山児祥さんに「金だろう?借金返さなきゃなあ」とまるで全てをお見通しという口調でサラリと言われ、ニヤリとせざるを得なかった。ま、それも理由のひとつであることはまったく否定しない。
いずれにせよ、どうも、今のエンゲキカイが私にとってはどうにも面白くないのである。あれらの、あの舞台が「面白く」「優れている」と言われるのなら、「そうか、わかった、だったら俺は芝居作るの止めるよ」とこれまで何度も思ってきたものだが、今回はほんとうにそう思っている。なにも自分の作品が褒められないからとか、自分以外の表現は認めないというのでは全然ない。これまでだってMODEや松本演出はごく少数の人にだけ支持されてきたのだってことはよーく分かっている。でも、それなりの居場所がちゃんと在ったように思う。やり続けることによって、その場所をキープしてきた。しかし、それがしんどくなってきたのだ。何の為に、そうまでして、やらにゃならんのか?と。
頭でっかちの、こまっしゃくれた、肉体のない、ユーモアのない、受け狙いの、前衛ぶってるがちっとも新しくもない、ゴミのような舞台が多過ぎないだろうか?

ステージナタリー 記事掲載

『ステージナタリー』に記事が掲載されました。

松本修率いるMODE、3月「あなたに会ったことがある・4」で活動休止へ

松本さんコメントもあり。
お時間許す折にご一読いただけますと幸いです。

2016年2月29日月曜日

演出家の独り言③


竹内銃一郎氏のこと。
直接会って口を利くようになってからでも三十数年になる。
最初はその作品というか劇団(秘法零番館)のファンとして。秘法の旗揚げ公演の1980年『あの、大鴉さえも…』は見逃している。最初に観たのは大塚ジェルスホール『溶ける魚』だと思う。
1984年、文学座の研修生として『あの、大鴉さえも…』を自主勉強会で上演して、それを文学座のアトリエ横の稽古場に観に来て下さった竹内さんや秘法の木場さん、小出さんとお話した記憶が鮮明にある。「君はどうも文学座風じゃないね」とどなたかに言われた。それほど下手だったのだろう。
その翌年1985年に今度は正式なアトリエ公演作品として『事ありげな夏の夕暮れ』という作品に出演(いちおう主演)した。稽古を観てのダメ出しが演出家(西川信廣さん)と作者(竹内さん)の言うことがまったく正反対で、いったいどっちを聞いたらいいんや!と迷わされたことが懐かしい。

1988年に私は文学座を辞め、1989年1月にMODEを旗揚げし、役者から演出者に転向した。
この1989年に秘法零番館は解散するが、竹内さんは精力的に作品を発表し続ける。
ただし、私はMODEを始めたばっかりで、もっぱら自分の舞台作りに励んでいたから、じっさいに観ていない竹内作品がずいぶんある。
2000年にはなんと役者としてお声が掛り、名作『月ノ光』に出演する。佐野史郎、岡本健一、小日向文世さんら豪華キャストと共演という夢のような時間。
その後、MODE公演として2002年に『恋愛日記』をザ・スズナリで演出。十年後の2012年にすまけいさん主演の『満ちる』を書下ろしていただく。MODEのホームページにすまさん、竹内さん、私の鼎談が載ってます。

この間、2003年から私は近畿大学の文芸学部芸術学科に勤務することになったのだが、そこに数年前から赴任されていたのが竹内教授であった。一昨年に竹内さんが退官されるまで十年間、私の上司というか同僚として同じ大学でセンセイをやっていたわけである。ずいぶんと深い仲なのではある。

今回は端折るが映画監督・黒木和雄氏を巡る関係など、これまた不思議と縁のある竹内さん。
今回の『あなたに会ったことがある・4』が生まれる経緯については、次回に書きます。